石川華代プロフィール 過去・現在・未来
教員への道〜教員になるまで
私が教員になると決めたのは小学校4年生の時でした。
それ以来、教員一筋。
小学校の時、算数が得意なんていうことは全くありませんでした。
中学の時に出会った数学の先生に言われた一言。
忘れられない。悔しすぎて。
「お前は見込みある奴だと思ったけど、全然ダメだな」
悔しくてね。
三者懇談で、
その先生にボロクソに言われながら、
涙が落ちるのを見られたくないから、
ずっと横向いてた。
こんちくしょう。
で、勉強した。
確かにボロクソだった成績のとき(笑)、
学年で上から60%っていうところまで落ちてて、
半年後には上位5%まで上り詰めた。
その先生は、口悪くてね。
姉もその先生のクラスで、口の悪さに辟易してた。
でも、授業ではたくさん考えさせられた。
教えられるばかりではない。
自分で考える授業があった。
そこが私の数学の原点です。
大学では数学教師になることを目指して幾何学を専攻しました。
数学教師以外の仕事なんて考えもしなかった。
で・・・、
大学卒業して、企業に入ってプログラマーになった。(笑)
それは、
社会経験のない人間が、教師として生徒の前に立つのは違うと思ったから。
少なくとも、私は、社会のこと何にも知らないまま、
「先生」って呼ばれて偉そうに授業する教師にはなりたくなかった。
教師になるための腰掛け的な気持ちで入った会社。
ああ、楽しかったなあ。笑
でも、教師の仕事から離れていることが苦痛になってきて退職しました。
教師になるー日本での教師時代
24才で学習塾を起業。
そして、学習塾と並行して、高校数学講師をしました。
高校とかで、1〜3年という短いスパンで生徒を見るのではなく、
小学校から高校まで、その長い期間の成長を見守りたい。
そんな思いがあって、学習塾を開きました。
でも、教育の中心である「学校」の場での経験も必要だと思い、
学校でも教えた。
学校では、町でトップの進学校で教えたこともあったし、
商業高校や工業高校でも教えたこともある。
東大・京大への進学者を毎年出しつつ、
管理教育が厳しすぎて自殺者が出る学校。
警察にお世話になる生徒が絶えない学校。
「俺らなんて」って考えが染み付いている生徒たち。
大好きな高校生の
未来に対する希望を持った生徒たち。
高校生活が楽しくてたまらない姿。
キラキラ輝く瞳。
・・・そんな姿ではなく、
疲れた。
時間があったら、ただただ寝たい。
・・・という姿が目につく。涙
そして、
数学を教えていても、
言われたことはきちんとやるけど、
なぜこれをやるのかと考えることもなく、
教えられたことを知っているけど、
その意味を考えるまでもなく、
「わからないけど、考えるの面倒くさいから暗記しておくよ」
という姿勢に出会ったり。
課題がありすぎて、
真剣に考えることなんてなくて、
もう完全に思考停止状態。
そんな状態で学んでいる数学は・・・
なに?
なんのため?
もう、これは教育全体なんとかしなきゃどうしようもない。
じゃ、どうしたらいい?
どんな教育がいいの?
で・・・出会ったのが、子安美知子さんの「ミュンヘンの中学生」でした。
電撃走りました。
これだーーーーって思って。
そこからは一直線。
シュタイナー関係の講座にあちこち出るようになり、
そしてカリフォルニアのルドルフシュタイナーカレッジの
サマープログラムに2週間参加。
そこでの体験が素晴らしかったので、
「絶対ここで勉強する。」
「ここに戻ってくる!」
って決意して。
英語勉強して、(英語も嫌いだったの!)
お金貯めて、
学校辞めて、
塾も閉じて。
いざカリフォルニアへーーー!
シュタイナー教育どっぷりの日々
ルドルフシュタイナーカレッジでは、
人智学ファウンデーションイヤー1年。
クラス担任教員養成1年。
フルタイム2年間どっぷりシュタイナー教育に浸りました。
夏の期間は、夏の教員養成プログラムに通い、
シュタイナー高校教員養成課程で学びました。
ほんと、寝ても覚めてもシュタイナー教育フルタイムの2年間。
卒業した後、
なぜかご縁があったのがイギリス。
2年前に日本からカリフォルニアへ、
思いっきり断捨離して、
ダンボール箱数箱だけの荷物で、
太平洋を超えて引っ越したところ。
今度は大西洋を越えて、
また、家具やたくさんのものを処分して
ダンボール箱数箱だけの荷物でイギリスへ。
でも、ダンボール箱以外に・・・
夫と4ヶ月の長男と一緒でした。
はあ。人生わからないものです。
で、イギリス第二の都市バーミンガムのベッドタウン、スターブリッジでの暮らしが始まる。
長男と14ヶ月違いで次男が生まれる。
次男が8ヶ月の時から、
スターブリッジにあるエルムフィールドシュタイナー学校で、
数学・幾何学のエポック授業を教え始めました。
楽しかった。
充実していた。
面白くてたまらなくて没頭しました。
頑張りすぎてね、
疲れて家に帰った時に、
我が子に笑顔が向けられなくなった時、
これは違う、私が求めていたものじゃない・・・と思いました。
教師は、
子どもの前に立つ存在です。
毎日子どもと接する。
親の次に、子どもに近い存在です。
そういう存在の人間がしなければいけない、一番大事なこと。
それは、
幸せであること。
私はそう信じています。
もちろん、疲れている時もある、
嫌なことがあって落ち込むこともある、
失敗することもある。
でも、人間として、人生を幸せに生きていること。
しかも、自分の選んだ仕事が大好きで、
それが幸せで仕方がない。
人生って、素晴らしいんだよ。
好きなことに熱中するって、こんなに幸せなことなんだよ。
そういうメッセージを、
言葉ではなく、
大人が子どもの前で、そのままの姿を見せること。
それほど強力なメッセージはありません。
それなのに、
私はその気力がなくなるほどにバーンダウンしてしまった。
自分に、
こんな教師はダメだ!・・・と大きな落第点をつけた瞬間でした。
模索、そしてe-waldorf
9才から教師だけを目指していた私。
そんな自分に、教師の落第点を自分でつけた私。
私はどうしたらいいの?
教師の仕事しか、今まで頭になかったのに。
色々模索しました。
でも、結局教育に戻ります。
シュタイナー学校で教えていた時、
いつも心に引っかかっていたことがありました。
それは、シュタイナー学校に行っていない子供達の存在。
日本の普通の学校で教えていて、
私は、そこで苦しんでいる生徒たちを目の当たりにした。
それが苦しかった。
それを何とかしなきゃと思った。
だからシュタイナー教育を学び、シュタイナー教師になった。
シュタイナー教育の場にいると、
ますます、シュタイナー教育の素晴らしさがわかりました。
でも、苦しんでいた生徒たちの姿も、
記憶の中から消えることはありません。
シュタイナー学校で幸せに学んでいる子どもたちを見れば見るほど、
あの、苦しんでいる生徒たちを放っておいていいのか!?・・・という気持ちに苛まれます。
だから。
私は、
シュタイナー教育と、メインストリームの教育をつなぐ仕事をしなきゃ。
そう思いました。
両方の現場を経験している私だからこそできること。
そして、そうすることで救われる子どもが増える。
目を輝かせて、
学ぶことが楽しいと思う子どもを一人でも増やしたい。
だいたい、
こんなに楽しく学んでいる子どもたちが現にたくさんいるっていうのに、
それを伝えない・・・って、
そんなの罪でしょ!
そんな仕事をできたら、
そんな嬉しいことはない。
私は、誰でも、自分にぴったりの、適職、天命があると信じています。
それは、自分の力を生かせる仕事です。
私がしたいことと、私ができることがぴったり重なる。
そんなことが、誰にでもあると強く信じています。
難しいのはそれを見つけること。
でも、私は、見つけた。
教員の時の莫大な教材研究の資料。
心を込めて作ったエポックノート。
教材。
そして、教師としての経験。
私は大した教師じゃないかもしれないけど、
これだけの経験と資料は財産です。宝です。
これを必要としている人が必ずいる。
宝を独り占めしたり、埋もれさせたら、
必要としている人に申し訳ない。
それを持って、
私は、シュタイナー学校の垣根を超えて、
シュタイナー学校の外にいる人たちに、
シュタイナー教育を届ける。
子供達の目の輝きを取り戻す。
・・・その活動は、
私自身が輝く仕事でもあります。
自己犠牲じゃなくて、私もみんなも幸せになる仕事をする。
私の仕事を応援して、サポートしてくださる、
たくさんの読者の方、生徒の皆さん、
私の教材を参考にして授業をしてくださっている、
シュタイナー学校の先生、塾の先生、公立の先生、
そして、シュタイナー教員養成の先生。
感謝の気持ちでいっぱいです。
これからも、皆さんの心に届く、
子どもの心を動かす教材を作り続けていきます。
そしてそんな授業を子どもたちに届けられる先生たちを増やしていく。
それが私の活動です。
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