からの続きです。
算数を使える力、基盤ができていた、
それが自然に育った理由・・・
それは「手作り」でした。
私は小さいころから絵をかくこと、ものを作ることが大好きでした。
母も手芸が大好きでした。
洋裁、編物、手まり、その他、
和紙人形とか、タバコの空きパッケージで作った傘とかね。
(なつかしい。昭和の手作り!)
いつも何かしら作ってました。
そういう、ものを作るプロセスを、毎日の生活の中で見ていた私は、
わたしもやりたい!!!
と自然に思うようになりました。
小学校2年生のときに、「編物したい!」と、
母にせがんで編物を教えてもらいました。
最初は、ただのかぎ針の鎖編みだけだったけど、
ただひたすら、ひたすら、鎖編みを何メートルも編んだなあ。
目的も何もなくても、ただひたすら編み続ける、
その作業が楽しいお年頃。
それから年々、つくるものもレベルアップしていきました。
「やりなさい」なんて言われたことは一度もありません。
やりたかったから、やっていた。
そうしたら、自然に手作りのなかで算数をつかっていたのです。
「わたしもやりたい!!!」
と思ったのには、
もう一つの側面もあって、
「欲しい!!!」
という欲求。(笑)
謙虚で節約大好きな母が大蔵省の我が家は、
堅実で質素な暮らしをしていました。
だから、欲しいものなんて、なかなか買ってもらえませんでした。
不自由していたわけじゃないです。
絶対必要!だというものは買ってもらえました。
でも、
親の視点で「必要でない」と判断されるものは買ってもらえませんでした。
だから、買ってもらえないなら、
自分で作ろう!!!
・・・となったわけです。
手作り好きな母ですし、捨てられない人なので、
ハギレや、糸、紙、包装紙やリボンなど全部大事にとってあって、
材料はけっこうあります。
母が「いつか使えるかもしれない」ととっておいた、
不用品コレクションの箱を見て、
何がつくれるかな、
欲しいものを作るにはどうしたらいいかなーと、
いろいろ考えました。
そして、実際に工夫して作ってみました。
さらに・・・・
小学校までは、
着るものは母の手作りか、
いとこのおさがりばかりでした。
いとこ中で一番年下だったので、
服がまわってくるの。
それもたくさん!!
しかもいとこは一回り年上くらい歳の離れたいとこばかり。
つまり・・・・、
強烈な時代遅れなデザインのものが回ってくるのね。(涙)
質のいいものだし、
痛んでもいないのだけど、
時代遅れというだけじゃなくて、
趣味あわな〜〜い!!! 涙
でも、
「服はあるんだから、新しい服なんて買う必要ありません!」
という母。
はい。正論です。
「流行は繰り返すからいいのよ」
とかね。
そりゃそうだけどーーーー。
こんな服着たくなーーーーい。(涙)
ハギレや残り毛糸からはじまり、
いろいろものを作っていたけれど、
さすがに残りの材料では、服まで作れず。
でも・・・、
セーターや服を自分でつくるなら、
材料はかってあげる!
と母が言ってくれたので、
編みましたよ。
作りましたよ。
小学校高学年でセーターやカーディガン編んだし、
スカートやブラウスも。
学校に着ていく冬のコートまで自分で縫いましたよ。
(いとこのお古のじゃあまりにも時代おくれで恥ずかしかったの!)
「欲しい!」
という気持ちはものすごく大きな動機になりました。
これがあったから創作活動も、さらに意欲が増しました。
完成させなきゃ、
「欲しい!」という欲求はみたされないから、
がんばって仕上げるし、
欲しいものは次々とでてくる。
そして、創作は、延々と続く。(笑)
そして、母は、
作り方もちゃんと教えてくれました。
母は教師ではありませんでしたが、
その教え方が、さらに、良かった。
すごいなあ。我が母。
プロ教師の私から見てもあっぱれ。
次回は母の教え方について書こうと思います。
コメント