雲の上の人智学と、地に足ついた役立つ人智学

人智学は人の叡智の学問です。

人智学を読んでいるだけだと、

その叡智は、なんだか天の上のもののよう。

 

なんだか地に足つかないように感じたことありませんか?

 

私たちの暮らしにどう関わって来るのか、

どう繋げていけばいいのか、

どう役立てていけばいいのか、

なんだかよくわからない・・・と思いませんか?

 

現実と、思想が、ものすごくかけ離れているような気がする。

 

天の上の、

なんだかわかったようなわからないような感じ。

 


よくわからないけど、

シュタイナーの言っていることが的を得ているような直感がある。

 

で、

そこが、なんだか魅力的。笑

 

それはそれで良いのだけど、

というか、私はそこも好きだけど。笑

 

今ある、現実の毎日の中で、

それをどうやって役立てていったらいいのか。

 

今ある暮らしで、

問題が起きた時に、

私たちはどう行動できるのか・・とかを、

人智学の力を借りていけるように。

 

子どもたちに接する時に、

人智学がどう役に立つのか。

 

理想的でないことも、

身の回りにたくさんあって、

そんな現実の中で生きていかなければいけない子供達。

 

 

そんな悩ましい状況の中で、

子育てをしなければいけない母親。父親。

 

 

実際に、そこに人智学を役立てていこう。

 

「人智学を学ぶ」ことが目的でなくて、

「人智学的を人生に役立てる」事を目的として学ぶ。

フォーカスするポイントを変えて、

人智学を学べるような、

そんな場所をそろそろ創る時期かな。

 

そんな風に感じています。

そんな考えに共感する方は、

これからもメルマガe-waldorf newsletterに注目していてくださいね。

 

 

 

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私は人前で話すのが怖かった

私は、

子どもの頃、

一度も自分から発言できなかった。

 

恥ずかしくてね。

声を出すことそのものが、もう恥ずかしくてね。

 

 

 

先生に当てられた時、

必死の思いで、

「はい」

って答えた。

 

 

先生は深いため息をついた。

「もうちょっと、大きな声が出せないか・・・・・・・・・。」

って、

深々とため息ついた。

 

 

あの時の、先生のため息の深さは、

今でも忘れられない。

 

 

必死に、声出したのに。

私にとっては精一杯の声だったのに。

 

 

そんな私が、教師になりたくて。

9歳の頃から教師になるって決めて。

 

 

それなのに、

そんな私のことだから、

自分で、

「教師なんて向いてない」

ってわかっていた。

 

 

で、教師になっても声出なかったの。

 

 

だから発声練習するようになって。

毎朝通勤の車の中では

一人発声練習してた。

 

 

私の教えていた教室から3つ隣の教室にいた先生に、

「石川先生の声がよく聞こえてくるよ。よく通る声だね。」

って言われた時は、

やっと、大きなコンプレックスを一つ解消できた気がして、

泣きそうだった。

 

 

 

臆病者で、

内気で、

声も出せなかった私。

 

 

今は、

知らない人100人の前でもマイクなしで堂々と話せる。

 

 

人は変われる。

いろんな経験が私を変えてくれた。

 

 

一番私を変えたのは、

シュタイナー教育だった。

 

 

 

シュタイナー学校に行かなかったけど、

シュタイナー教育を学んだことそのものが、

私の人生観、価値観を変えた。

 

 

失敗してもいいんだと腑に落ちた。

何があっても、私は大丈夫だと思えた。

 

転んでも。倒れても。

 

何があっても、

私は私で

大丈夫なのだと。

 

それが今の私の基盤になっている。

 

 

シュタイナー教育は、

子どものためだけの教育じゃない。

 

 

子どもと大人が、

みんな幸せになる教育です。

 

 

誤解することなく、

本当にシュタイナー教育を追求したら、

そこにあるのは自由。

 

それは幸せ。

 

幸せは、トラブルや不幸がないってことじゃない。

 

幸せというのは、

何があっても、幸せを感じる力があるということ。

 

失敗する自分を自分が肯定できること。

 

 

だから、

「シュタイナー教育で育ちたかった」

という大人の人にも、

今からでもシュタイナー教育で学んでほしい。

 

心からそう思うのです。

 

 

批判とか中傷とか


いろいろありますよね。批判されたり中傷されたりすること。

私は、こんな風にネットで公にいろいろ書いているから、中傷コメントもあるし、シュタイナー批判を受けることもあります。

特に公にシュタイナーについて意見書いたりしていないひとだって、「ええ? シュタイナー教育?」「シュタイナー園に行かせるの? 大丈夫?」「シュタイナー教育なんて、ちゃんと勉強教えない学校だ! やめておけ!」「そんな学校いくと大学行けないぞ」「オカルトじゃないの?」「新興宗教?」とか・・・

まあ、ありとあらゆることを言われたことがあるのではないかと思います。


事実無根の中傷もありますよね。

「シュタイナー? ナチスの手先だな」って書かれたことありましたよ。シュタイナー学校はヒットラーに敵視されて閉校させられたりもしましたけどね。

そんな、「全くシュタイナーを知らない人」の意味のない中傷は、関わりあっても時間の無駄。エネルギーの無駄。さらっと無視します。批判したい、喧嘩を売りたい、議論したいだけの人は、やっぱり時間とエネルギーの無駄。スルーします。


ちょっとだけ聞きかじっていて、思いっきり誤解している人でも、「知ろう」というポジティブな意思が感じられる相手なら話をします。

シュタイナー教育って、世界最大のオルタナティブ教育ムーブメントです。世界最大になるということは、シュタイナー教育大好きなひとがいる一方、大嫌いなひともいます。

イギリスのウィンストンズシュタイナー学校があるストラウドにだって、実は、すごい「アンチ・シュタイナー運動」があるんですよ。

かなりのコンテンツ量のあるウェブサイトも作っていて、シュタイナー教育批判をしています。

こういうひとは、教養もそれなりにあり、調査もし、その上で批判しているひと。

何か、嫌な経験があったのかもしれない。

どうしようもなく、価値観が違うのかもしれない。

私が大好きなもの、ライフワークとして熱心にとりくんでいるものを批判されることは悲しいです。でも、そういうひとにたいして怒りはありません。

価値観が違うひとというのは、いるんです。それは当たり前のこと。

ただ、そういう、ある程度教育もエネルギーもあるひとが、そういう生産性のない「批判をする」という行為に、こんな莫大なエネルギーを費やしているのがとても残念です。勿体無いとつくづく思います。せっかくあるエネルギーを、いいものを推進することとかの建設的なことに使えばいいのにねえ・・・。

ああ、もったいない。

シュタイナー教育、人智学を学んで身についたことのひとつが「違いを受け入れる」ということです。

世界のなかに、価値観が違うひとがいるのは当たり前のこと。

真実はひとつであっても、角度を変えてみたら違って見える。

環境や社会も違えば、考えることも、道徳観さえも違う。

それは当然。違っていていいんです。

批判されたり中傷されたりするのは悲しいし、傷ついたりもするけれど、違う考えを持っている人がいることはいいことだと思います。

自分の考え、自分の信じるもののほうが優秀だとも思わない。

その人には、その人の生きて来た歴史と経験があって、今生きている社会や環境のなかでは、それが正当と信じているのでしょう。その人にとっては、その考えが正しいのでしょう。

だから、相手の「違う意見」を批判する気もありません。

世界は、いろんな色といろんな種類の糸で織った、織物のようなもの。

単一の糸で織った織物もきれいだけど、ちょっと退屈。ひとつひとつの糸は、他の糸に隠れて同一化してしまって個性もなく面白みもない。でも、いろんな種類が混ざると、もっと面白くなる。ひとつひとつの個性が活きる。

世界って、そんなもの。


だから、ほんと、いろんな違う意見が世界に共存していることは好ましい。

違う意見があることそのものは全然悪くない。でも、そこから派生する「行動」が問題をひきおこすことがある。違う意見を、批判したり、諍いにしたり、争いごとの原因になったりするのは、お互いの足を引っ張り合うだけ。

もっと、違いを受け入れればいいのにな。

あなたの意見は私と違う。協力しあえるところは協力しましょう。違った意見をもったもの同士、違いを乗り越えて協力しあえたらきっと世界は素敵になる。協力しあえない場合は、私は自分が信じることで、世界に貢献する活動を目指します。あなたも、自分の意見を生かして、それをもとに、世界を良くなるような建設的な活動をしてください。

わたしは、そんなスタンスです。

でね・・・ 

わたし、シュタイナー教育をライフワークにしているけれど、

世の中が全員、シュタイナー教育大好きなひとばかりになったら(つまりみんなが同じ考えになっちゃったら!)、それはそれで怖いし、変な世界だと思うんですよ。

やっぱり、ひとはそれぞれ違ってなきゃね。(笑)